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資料情報
各蔵書資料に関する詳細情報です。
No. |
所蔵館 |
資料番号 |
請求記号 |
配架場所 |
所蔵棚番号 |
資料種別 |
帯出区分 |
状態 |
付録 |
貸出
|
1 |
中央図書館 | 0116415019 | 914.6/ヒノ/ | 1階図書室 | 65A | 一般図書 | 一般貸出 | 在庫 | |
○ |
2 |
澄川 | 6011716369 | 914/ヒ/ | 図書室 | 20 | 一般図書 | 一般貸出 | 在庫 | |
○ |
3 |
白石区民 | 4112409588 | 914/ヒ/ | 図書室 | | 一般図書 | 一般貸出 | 在庫 | |
○ |
4 |
ふしこ | 3211100809 | 914/ヒ/ | 図書室 | | 一般図書 | 一般貸出 | 在庫 | |
○ |
5 |
藤野 | 6210408271 | 914/ヒ/ | 図書室 | | 一般図書 | 一般貸出 | 在庫 | |
○ |
関連資料
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書誌詳細
この資料の書誌詳細情報です。
タイトルコード |
1006300070938 |
書誌種別 |
図書 |
書名 |
九一歳の人生論 「本分」を極める生き方とは? |
書名ヨミ |
キュウジュウイッサイ ノ ジンセイロン |
著者名 |
日野原 重明/著
|
著者名ヨミ |
ヒノハラ シゲアキ |
著者名 |
瀬島 竜三/著 |
著者名ヨミ |
セジマ リュウゾウ |
出版者 |
扶桑社
|
出版年月 |
2003.9 |
ページ数 |
246p |
大きさ |
20cm |
分類記号 |
914.6
|
分類記号 |
914.6
|
ISBN |
4-594-04200-7 |
内容紹介 |
「命をどう使うべきなのか考えること」「人間は自分本位の考え方を捨てた時点から強くなれる」-。二人で182歳の頂上対談ついに実現! 日本を代表する二大長老が初めて語り合った「命の使い方」の極意。 |
著者紹介 |
1911年山口県生まれ。聖路加国際病院理事長・同名誉学長、ライフプランニング・センター理事長。 |
言語区分 |
日本語 |
(他の紹介)内容紹介 |
二人で182歳の頂上対談ついに実現!日本を代表する二大長老が初めて語り合った「命の使い方」の極意。 |
(他の紹介)目次 |
第1章 「本分」をもって生きるということ(三〇年前の印象的な出会いの時、ドクター日野原がおっしゃったクスリになる言葉 社会が豊かになり、人が贅沢になったのと引き換えに、見失ってしまった大切なこと ほか) 第2章 日本人の大きな忘れ物(成績よりも人づくり。陸軍幼年学校で人間としていちばん大切なものを教えられた 生涯を愛と夢に生き、理解されないなかでも信念を貫いた父に教えられたこと ほか) 第3章 逆境は乗り越えるためにある(人生に障害はつきものだが、長く生きていれば必ず逆転のチャンスが訪れる 「ニンジン泥棒」と「みかん交渉」―極限になると人間は裸になってしまう ほか) 第4章 命の使い方を考えて深く生きる(人間の価値は階級や肩書きではなく、その人の愛情の深さで決まるもの 死の床にあった“地獄谷病院”で回復を心から願ってくれたロシア人女性がいた ほか) 第5章 いくつになっても勇気とロマンを(生き方に感銘を受けた人を見習って、人生のモデルを決めよう 人生のモデルになりそうな人を探して本を読んでみると、読書が楽しくなる ほか) |
(他の紹介)著者紹介 |
日野原 重明 1911(明治44)年10月4日山口県生まれ。京都第三高等学校から京都帝国大学医学部に入学。22歳の時、結核で1年間の闘病生活。医学部卒業後、同大大学院で心臓学専攻、博士課程。1941年聖路加国際病院の内科医となり、内科医長、院長代理、院長を経て、現在、聖路加国際病院理事長・同名誉院長、聖路加看護大学理事長・同名誉学長、(財)ライフプランニング・センター理事長。終末期医療の普及、医学・看護教育にも尽力。「生活習慣病」という言葉を生み出し定着させるなど、「患者参加の医療」を目指して、つねに医療の最前線で時代をリードしてきた。現在も現役医師として活躍するほか、最近は、75歳以上の健やかな「新老人の会」を提唱し、同会会長を務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 瀬島 龍三 1911(明治44)年12月9日富山県小矢部市生まれ。’32年に陸軍士官学校、’38年に陸軍大学を首席で卒業。’39年、大本営参謀部員となり、その後関東軍参謀に転じる。’45年敗戦後、満州でソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留される。11年後の’56年に帰国。’58年伊藤忠商事に入社。航空機部次長、同部長、機械第3部長を経て、’61年経営戦略本部ともいうべき業務本部長に起用され、総合商社への脱皮を図る伊藤忠の近代化に手腕を発揮した。’62年取締役、’63年常務、’68年専務、’72年副社長、’77年副会長を経て、’78年会長となる。’81年に中曾根康弘から臨時行政調査会委員の就任要請を受け、3月第2次臨調委員となり、伊藤忠は相談役に。’87年特別顧問。2000年退任。現在も80以上の肩書きを持つ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) |
内容細目表
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